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わたしの父は大正15年生まれ。
生きていれば、今年で89歳。

先日メディアで見かけた戦争体験を語る方が父と同い年と気づいて、本当にいつ戦争に駆り出されてもおかしくなかったんだなと実感しました。

 

「次は俺たち、というときに戦争が終わった。」
生前、父はそう言っていました。

 

小さい頃は、今よりだいぶ神経が過敏だったわたしは、父が話そうとする戦争の話をことごとく拒否したのを憶えています。
とても受け止めきれる気がしなかったから。
そして、聞かずとも戦争が恐ろしいもので、二度と繰り返してはいけないものだと感じていました。その心があれば十分だとも思っていたのです。

そんな状態だったのに、
わたしの記憶には、まるで自分で見たかのように父の話が残っています。
ふとした隙に聞かされたんだな、きっと。

 

戦時中、父は東京・立川の飛行場で働いていました。日本が戦場になるまでは、立川から都心の学校に通わせてもらっていたそうです。戦況が悪くなってからは、徒歩での往復だったと聞いて驚きました。

「でも、学校に通わせてもらえるのがうれしかったし、ありがたかった。勉強がしたかったから。」

戦況がさらに悪化し、終戦が近づくころにはさすがに学校には行けなくなり、飛行場で働きながら、出征の時を待ちました。

 

目の前で爆撃に遭ったこともあったらしく、その際は、仲間のうちの一人が目の前に立ちふさがり、自分の命をなげうって、父を含めた仲間たちを守ってくれたのだといいます。

「あの時、あの人が手を広げて俺たちの前に立ってくれたから、俺たちは助かった。」

お酒の弱い父が、ビール一杯で顔を赤くしながら話してくれました。その目にはまだ、その時の光景が焼き付いているようでした。

そして、次は自分の番というときに、戦争は終わり、
たくさんの仲間が死んで、自分は生き残った。

戦地に赴いたわけではない少年の心にも、本来なら感じなくてもいい後ろめたさは残りました。

 

父が、一人娘のわたしを東京に出してくれたのは、自分自身が勉強したかったけれどできなかった、という思いがあったから。だからわたしには、学びたいことを学ばせてやりたい、と送り出してくれました。
・・・父の思いが胸に染みるようになったのは随分経ってからで、東京に出てきた当時のわたしは、生まれ変わったかのような気持ちで、自由を満喫していたわけなのですが。。

うん、やっぱり勉強しなくちゃいけないな。
勉強しようと思えばいくらでもできる環境にいるのだから。

 

今も父が生きていたら、なんて言うかな。
いわゆる日本の、しかも田舎の頑固親父だった父の言葉を聞いてみたい。

 



コメント一覧

りいち 2015年8月15日 8:15 AM / 返信

私の父も大正15年生まれです。
当時、陸軍航空隊の軍属として内地の航空基地を転戦し、戦闘機の整備にあたったそうです。

空襲で飛行場が攻撃される度、離陸すれば最後、着陸できない戦闘機で届くはずのない高度から投爆するB29に向かって翔び立つ同世代の飛行兵を見送り続けたそうです。

どうにか生き延び、熊本の飛行場で終戦をむかえた父は、航空工学の道を捨て、技術教師として戦後を生きました。

70年前のこの日の決断です。


    emi-w 2015年8月15日 7:17 PM / 返信

    りいちさん、コメントありがとうございます。
    お父様と、わたしの父は同い年だったのですね。りいちさんのコメントを読むにつけ、お父様も私の父も毎日ギリギリのところで生きていたのだと実感します。
    航空工学の道はもしかしてお父様の夢だったのでしょうか。戦争はお父様の夢を変えてしまったのでしょうか。
    今年ほど、戦争や平和に思いを馳せる年はありません。


りいち 2015年8月15日 9:40 PM / 返信

父は、自分の夢とひきかえに生涯を賭す使命を見出したようです。

僕は、それが羨ましく思えてなりません。


    emi-w 2015年8月15日 11:08 PM / 返信

    生涯を賭す使命…今見つけられている人はどれくらいいるのでしょうか。
    これまでインタビューでお話を伺っている方々は、その使命を見出している方々で、わたしもうらやましく思います。


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